[ 寄稿者:蓮田春高会広報担当 大熊 俊雄 氏(高15回) ]
日時 | 平成26年11月16日(日) |
コース | 雲龍寺⇒惣宗寺 ⇒ 田中正造生家 ⇒ 草木ダム(昼食) ⇒ 足尾銅山観光 ⇒ 足尾ダム ⇒ 足尾環境学習センター |
参加者 | 24名(参加者氏名後記) |
第13回名所・旧跡探訪は、蓮田駅午前8時に集合し、27名参加希望がありましたが、3名の方がご都合の関係で欠席され24名で定刻少し前に出発しました。バス内では、吉田会長の挨拶の後、資料作成された森戸さんより今回の探訪について説明がされる中、雲龍寺に着きました。
最初の目的地は、群馬県館林にある雲龍寺
この寺は、明治29年10月に栃木・群馬両県鉱毒事務所が設けられ、その後、足尾銅山鉱業停止請願事務所として栃木・群馬・埼玉・茨城4県の鉱毒被害民の闘争本部になりました。また、明治33年の川俣事件のときは、2千余人が抗議のために集まり、東京に向かいました。また、大正2年9月4日に死亡した田中正造の仮葬儀がこの寺で行われました。
次の目的地は惣宗寺
佐野市金井上町にあるお寺で佐野厄除け大師として有名である。大正2年10月12日この寺で田中正造の本葬、続いて分骨式が行われた。山門に正対して、田中正造の大きな墓があり、石を積んだ台座の上に、「嗚呼慈侠田中翁之墓」と刻まれた自然石が聳えている。
次に向かったのは、佐野市小中町にある田中正造生家
田中正造の邸宅は、小中町のほぼ中央県道沿いにあり、県道の拡幅工事により移築されている。祖父の代から名主であったが、豪農とは程遠い村でも中程度のたたずまいである。持高14石の百姓であった。表通りに面した2階建ての隠居所、藁葺きの母屋、土蔵などがある。この生家では、ボランティアによる田中正造にまつわる説明が行われ、天皇への直訴状など当時の鉱毒に対する行動がうかがわれる。また、生家と道路を挟んだ反対側には、田中正造生誕地墓所があり、今回は、こちらで集合写真を撮りました。
次に向かったのは、草木ダム
このダムは、昭和52年渡良瀬川に作られた多目的ダムで、役割として出水調節、発電、用水(上水道・工業・農業)を挙げるが、草木ダムには、もっと重要な目的が隠されていて、それは、上流の足尾銅山から流出する鉱毒を沈殿させることである。今回は、ダムに臨むこの場所で昼食となり、紅葉を眺めながら、きのこの炊き込みご飯をいただきました。
昼食後は、足尾銅山観光
足尾銅山観光は、足尾銅山の鉱石量の減少、鉱毒問題などから昭和48年に閉山されました。この鉱山採掘あとを観光施設として昭和55年にオープンされ、通洞坑口から700mの周回コースでそのうち160mはトロッコ列車で坑道に入り、江戸時代から昭和までの銅採掘の変遷を、動く人形を見ながら坑道を進み、鋳銭座を見学した。坑道内は、水が滴り落ち、暗く、大変な仕事であったことが理解できた。
最後の目的地は、足尾ダム・銅親水公園・足尾環境学習センター
足尾ダムは昭和30年に完成した当時は日本最大の砂防ダムで貯砂量は500万立方m。このダムは、山の土砂の流出を防ぐ砂防ダムで、松木川・仁田元川・久蔵川の合流点に作られ、特に煙害で荒廃した上流から運ばれる砂礫をここで食い止める目的があった。現在、ダムは土砂で満杯となり、砂防ダムとしての機能は、終わっている。
このダムの上流の山は広範囲にわたり、銅精錬所からの亜硫酸ガスを含む煙害により草木は枯れ、はげ山化しており、山肌が露出している。そして、これらの山に植樹がなされているが、急峻な山に多くの困難が伴い、元の状態には膨大な人出と時間を要することがうかがわれる。
足尾環境学習センターでは、足尾銅山の歴史、自然の大切さ、環境問題を教えられ、帰途に着いた。帰途は高速の渋滞もあり予定より1時間遅れたが、全員無事に帰宅することが出来ました。日本最初の公害である足尾鉱毒問題の理解が深められた一日でありました。ふっと、福島の原発で家を離れなければならない人たちのことが、鉱毒で村を離れなければならなかった人たちに重なりました。
(文責 柳澤 章)
参加者氏名(敬称略)
山本福造、飯野敏雄、大橋鎌芳、石井孝夫、岡野 弘、森戸乙三郎、新井武治、岡田貞男、高橋忠男、増永 昇、石井正夫、関根伊佐夫、祖父江雅和、松本俊哉、岡野 敏、中野三郎、波多野 光、吉田雅芳、本橋恒雄、柳澤 章、金子隆明、長嶋祐介、平野光雄、岩崎一彦